はじめに
2023年9月にウクライナにボランティア活動をしに行きました。実際にウクライナがどのような状況でどのような国なのかを、写真と文章で感じていただきたいと思います。
ウクライナ入国
ポーランドのクラクフからバスで16時間ほどかけて、首都キーウへ向かいました。乗客は、私達以外皆ウクライナの方で、普通の夜行バスといった雰囲気でした。国境に到着し、バスを降り検問所へと向かいパスポートを渡し、ボランティアが入国目的だと回答すると、感謝の言葉をいただき問題なく入国できました。正直、入国できるかさえ不安であったのでとても安心しました。途中サービスエリアのような場所で休憩をはさみつつ、リビウを経由し、キーウに到着しました。ウクライナ鉄道でポーランドから入国できるのですが、1週間ほど前にはすでに満席の状態であったのでバスを選択しました。
首都キーウ
首都キーウへ実際に行き、驚いたことがあります。第一に、想像以上に発展しており栄えているということとです。正直、ウクライナというとヨーロッパ内でも貧しい国で、汚職が横行しており、あまり発展していないと言ったイメージが自分の中にありました。ただ、実際には地下鉄やバスなどのインフラはもちろん、デパートや飲食店も豊富に存在しており、"大都市"と言った印象を受けました。第二に、日常生活に戦争の気配がほとんどない。ということです。生活の中だけでは戦争が起きていることは全く実感できないほどに、ホテル、飲食店などすべてが平常通りに見えました。中心地では、人通りも多く、ストリートミュージシャンなどもおり、非常に栄えていました。戦争から1年半が立っていることもあり、市民が戦争に振り回されずに、日常を取り戻そうとしている努力でもあると感じました。ただ、夜12時以降の外出が禁止されているため、夜になると街には人通りが少なくなる印象がありました。
私達が見つけた限り、キーウで崩壊した建物は、1つでした。首都の中心地、特に大統領府などの政治的中枢機関が集中している地区では、防空システムが手厚く、被害を受けることは少ないらしいです。ただ、迎撃したミサイルの破片が落下して被害を招くことがあるそうです。2週間の滞在で、運良くキーウにミサイルが落ちることはなかったのですが、空襲警報は3回ほど聞きました。空襲警報が解除されるまで、地下鉄や近くのシェルターに避難するのが一般的とされていますが、市民の中には避難しない方も多く、市民の慣れを感じました。このように避難しない「市民の慣れ」が今のウクライナでは問題になっているそうです。
地下鉄
ウクライナ・キーウの生活では、地下鉄が欠かせないでしょう。基本地下鉄を使えば、片道30円程度で、キーウ内のどこへでも移動できます。電車も10分おきほどに来ますし、クレジットカードを改札にタッチするだけで誰でも簡単に乗れます。キエフ地下鉄は世界でもっとも深い場所を走っているとされ、最深のアルセナーリナ駅は地下105.5メートルにプラットホームがあります。そのため、ホームへ行くにもエスカレーターで3分ほどかかります。また、空襲の際は、シェルターとしての利用もされます。
シェルター
ホテルでは、基本的に備え付けのシェルターがあることが多いです。これらのシェルターは、旧ソ連時代につくられた古いシェルターであることが多いです。また、外にいる場合は地下鉄に避難するのが一般的。
ブチャ
キーウの中心地からバスで40分ほどかけ「ブチャ」という街へ行きました。ブチャは、2022年の4月にロシア軍の虐殺の疑いが明らかになったとして注目を集めた場所です。閑静な住宅街といった印象で、道路や建物はほとんど改修されており、崩壊した建物は見当たらないほどでした。
以下の動画は、ブチャの街を案内してくれたおじさんに頂いたものです。侵攻直後の街の様子が写っており非常に生々しい映像です。
ご飯
寿司
ウクライナでの印象に残ったことは、寿司の人気です。街に出れば、必ずと言っていいほど寿司屋を見つけます。ウクライナの寿司は握りなどの本格的なものより巻物が一般的です。主流は海苔の外側がシャリになるカリフォルニアロール式の「裏巻き」で、クリームチーズ、イクラ、ビーツの酢漬け、キノコなど様々なご当地食材が巻かれていることが多いです。実際に、ウクライナは寿司の年間消費量が日本に次いで世界第2位だそうです。
ラーメン
ラーメンの人気もあり、街でたくさんラーメン屋を見かけました。ラーメンの麺は、全体的にパスタのような麺になっています。スープも全体的に甘く、日本のラーメンとは違った印象を受けました。日本のようにカジュアルに入るお店ではなく、ラーメンが少しおしゃれなものとして認識されている印象を受けました。
郷土料理
ボランティアに行った際に、郷土料理をいただきました。
その他ご飯
チェルニーヒウ
私達は、瓦礫除去のボランティアをするためにチェルニーヒウへ向かいました。途中の検問所でパスポートと携帯の中身を確認され、キーウ中心地からバスで3時間ほどのチェルニーヒウに到着しました。チェルニーヒウは、キーウほど防空システムが手厚くないらしく、爆撃の被害も多く見られました。私達が到着した3日前にも、ちょうどミサイルが落ちたばかりでした。実際に現地の人に聞いた話によると、ロシア軍は、ミサイルを落とし、救急隊が来たところを狙ってもう一度爆撃をするので、ミサイルが落ちたばかりの場所でも油断してはいけないということを教えていただきました。
終わりに
今回の渡航を通じて、現地の人のお話を直接聞けたということが非常に大きかったです。特に、ボランティアを通じて出会った20代の青年たちは、覚悟が違うなと感じました。彼らは戦況が悪化すれば最前線に送り込まれ、国を出ることも許されないのです。彼らのうちの一人は日本に旅行に来たことがある普通の青年でした。戦争が終わったら日本にまた旅行に来たいと言っていましたが、戦争がいつか終わる保証など一生ありません。一生、ウクライナから出られないのかもしれません。そのような悲観的な状況にもかかわらず、休日を返上してボランティアに参加している彼ら、戦争中でも最大限に人生を楽しもうとしている彼らの姿は、衝撃的でした。日本の若者にはないエネルギーや本気さを感じました。彼らも戦争が起きるまでは普通の青年で、政治に興味などなかったようです。しかし、いきなり状況が変わったと言っていました。政治が自らの生活に直結することを身を以て経験したそうです。ボランティアの方々は、日本から来た何者でない我々のことを、本気で歓迎してくれました。ウクライナから遠く離れた国でも、我々の問題に関心があり、実際に足を運んでくれるのは嬉しいと言う言葉を頂いただけでも現地へ行った価値を感じられました。また、今回の渡航を通じて強く感じたのは、「Freedom is not free」ということです。自由を手に入れるためには、ただ見守るだけでは不十分であるということです。自由は決して当たり前のものではないのです。自由を手にしているからには、自らの手でその自由を守り続けていかなくてはならないのです。自ら積極的に行動を起こさなければなりません。日本では自由が当たり前過ぎて、その大切さを忘れがちですが、ウクライナでの経験は私の考え方を一変させました。私たちは、自由を当たり前と思わず、それを守るために自ら行動を起こす必要があります。この教訓は、私にとって非常に大きな財産となりました。この経験を身を以て体感できたのは、非常に大きな財産となるでしょう。